こんにちは!aimiです。
私は高知に移住する前、大学を卒業し15年間正社員として働いていました。
15年間、正社員でよかったこと=給料日にちゃんと給料がもらえること。
15年といっても、3社で15年なので
内訳は・・・
- 1社目 自動車部品会社 1年半くらい
- 2社目 〃 7年半くらい
- 3社目 〃 残りの期間(2016年まで)
とぜーんぶ自動車関係に勤務していました。
というのも自動車に興味があったからではないんです。
「お給料が、給料日にもらえれば」それで満足していました。
1社目…フォークリフト・自動車部品の塗装メーカーの事務
やっとこさ内定をもらう
就職氷河期といわれていた大学4年生の12月。
残念ながらまだシュウカツは終わっていませんでした。
もともと私は要領がいいほうではなかったのですが、結構回りも決まっていない人もいたので、「こんなもんだよな」と思っていたのですが
「さすがに4年生大学卒でフリーターは辞めなさいよ」、
と親の一声で焦りを感じ始めました。
超地元の求人広告で「受けてみるか」程度の気持ちで受験。見事に(?)受かりすがる思いで就職活動を終えました。
そのおかげもあってか、4月まで安心して大学生活を満喫できたのでした。就職氷河期にぶちあったせいもあってか、就職活動はとても消耗するものでした。
違和感をすぐ感じ始める
私、はじめは従順で何でもやる女性事務社員で通っていました。
しかし異常な環境に息くるしい日々が続いていました。
その異常な環境というのは、見渡してみる限り、定年間近・過ぎ(定年制のない会社でした)の方々が8割という高齢化具合。
70近いおじいちゃんが塗料の配達に行く始末。

と不穏に思いながらも見守りました。しかしベテランには違いないのでおじいちゃん達とはうまくやっていました。
ほかにはおばあちゃん事務員(年はいっているけど、背筋は伸びていてよぼよぼはしていません)が就業中にネットサーフィンをしていたり自由な会社でした。
とはいえ、ラクで高給な仕事には違いなかった
私の仕事はというと
- 月1回だけ「スキャンできるデータをあえて手入力する」変な仕事(たまにスキャンミスがあるという理由から)
- たまに営業さんが持ってくる手書きの見積もりをきれいに作成
ネットサーフィンやってたおばあちゃん事務員同様に少なすぎて、明らかに私に振られる仕事量も「何で私を雇用したのか?」がわからない状態の日々が続きました。
しかしボーナスを6月と12月にもらったときは「正社員最高」と思いました。
しかし平穏な日々は長くは続かなかった・・・社長の息子とケンカ
暇な時間が多いのはいいのですが、許せなかったことがひとつありました。
隣のデスクの上司が、「ほぼ勤務時間中ずっと寝ている」ということです。
当時その上司はよく夜遊びの話題を振ってきて困りました。彼女もいないくせに&酒も飲めないのに、何こんなに夜遊びしてるんだ?コイツと思ってました。
しかも、この上司は社長の息子で、「次期社長」になりうる地位にいました。
ある日、その上司を怒らせてしまいました。
何か忘れましたが、入力の件でミスを注意されたときがありました。
「何でここ、間違えちゃうのかな~」
「やり直してよ、すぐ。○菱に誤りに行くのは僕なんだから困っちゃうなあ~」
といわれカチンときてしまったのです。わたし。
「ほとんど寝ている人に言われたくありません」と。
次の日、即効社長に呼び出されて部署異動を言い渡されました。
ケンカ後、異動→会長の息子の下で働く日々
当時「会長の息子」も別の課にいて、その方のほうが明らかに人望も厚く仕事熱心でした。
その方の下で働けることになりぶっちゃけ「怒らせてよかった」とさえ思ったのはここだけの話ですw

しかも、会長の息子っぽくなく、低姿勢な方。
とても仕事がやりやすくなりました。
塗装面積の計算や塗料成分測定など、事務とはちょっと違う現場寄りの仕事ということもあって、やりがいも生まれるようになりました。
移動したことで、仕事で暇になる時間もなくなり、現場を事務所の行き来で定時に帰れない日もあるほどでした。
社長の息子、理不尽な口出し事件が勃発
ひとつ、入社当時からこの会社の許せない点がありました。
「10時と15時に事務所の皆さんに女性社員がお茶を入れること」
古すぎると思いませんか?
しかし当時、定年間近の人が多い会社だったのでそれがまかり通っていました。
4人の女子事務員で当番で回していたのですが、その日は私が当番で、、残業中に事務処理を追えて残業時間中にコップ洗いをしていました。
そしてその事件は起こりました。
社長の息子がつかつか出てきて、私に向かっていいました。

なんなん?この人?とすごい形相でにらんでしまいました。
ただ、これは決まりごとで決まっているし、
私が現場から帰ってこないのを見越して、手伝ってくれたこともあるほかの事務女性社員に「これは仕事としてやっているので時間があっても手伝わないでいい(aimiさんがやるから)」と私の上司からお達しを入れていただいた矢先の出来事でした。
私はびっくりしすぎて何もいえなかった・・・・。
でもなぜか悔しくて涙が出てきていました。
結局、理解できない慣習&ひどいストレスで退職
その後はどうやって帰ったかはあまり覚えていません。
積もり積もったストレスが爆発したのでしょう。
すごく頭が痛かったです。
その次の日、土曜日だったんですけど…気分も落ち着いて上司と話したかったんで電話してしまいました。
一部始終話すと
[メガネをかけた男性のアイコン素材.jpeg=”優しい上司” align=”right” border=”blue” bg=”none”]今日は土曜日。ゆっくり休んで、どうするか考えればいいよ[/chat]
とやさしく言葉をかけてくれました。
電話を切った後また泣いてしまいました。
日曜日、親にもそのことを話し
「社長の息子相手ならしょうがない、辞めたら?」
「まだ若いし、いい会社あるよ」とやめることを提案してくれ、
私もそう思ってたので、退職することにしました。
辞めるのはあっという間にできた
月曜日、社長も会長ももう耳に入っていたのでしょう、
すんなり手続きは終了しました。
今となっては有給も使わせてくれてとても感謝しています。

2社目…ちゃんとした大手自動車部品メーカーで安心
経験が少ない中でも、堅調な第2新卒転職活動
新卒で入った会社であまり経験(1年半)がなかったのもあって、その経験をもっと積むべきとの判断で2社目を受験しました。
転職活動は3ヶ月かからなかったです。
トントン拍子に決まりました。
受験していた感触としては、企業は「経験者」を求めているんだな、と新卒よりむしろ引く手あまたでした。
転職活動で重視した点
重視していた点は
- 同族企業ではないこと
- 大きな企業
- 福利厚生が整っていること
すべての条件が満たしている会社に内定をいただけました。

内定ゲット!社員数1,000人弱の大企業
決まった会社は1社目とは違い、同族の企業だけではなく、すべての自動車メーカーと取引があり、家電の部品も扱っていました。
また、結構大きな会社(2次部品メーカー)だったので、2社目は多岐にわたりいろんな経験をさせていただきました。
- 生産管理
- 製造
- 品質管理
総務をやらないかというオファーもいただいたことがありました。
総務はちょっと自分に向かなさそうなのでお断りさせていただきましたが、工場というのはこう回っているのかということは習得できました。

しかしながらリーマンショックで「派遣切り」を目の当たりにして正社員のありがたさを感じた一方、会社というのは冷たいなあと実感したのです。
正社員として働いてよかったことは、
見出しにもあるように
やっぱり「給料日にちゃんと給料をいただけた事」くらいでしょうか。
正社員は派遣社員よりも「責任」伴う仕事が多かった?ときかれるとそんなこと無いです。仕事は同じレベルで皆さんこなしていましたよ。
確かに「急に休む」比率は派遣社員さんのほうが多かったのかもしれませんが・・・。
正社員として「社会人」としての経験はつめたけれど、それだけかなあ・・・という感じ。
決して楽しいと思ったことは無かったです。
「こういう風に自動車部品が作られているのか~」って言うことは嫌というほど見てきましたが。
いちばん長くいた生産チームのほうでは、子育てと両立されている方も同僚にいましたが、出産を控えて退職する人とで半々くらいでした。
特に「ゆとり世代」といわれる世代が入ってきてからは「仕事のモチベーション<プライベート」という風潮がいっそう強くなりました。
私もその波に乗り、結婚8ヶ月後、退職しいました。
3社目…自動車部品の3次下請けメーカー。立場ががらりと変わる。
30を過ぎても正社員!
そんなこんなで「結婚」という人生の区切りで2社目を結婚後8ヶ月で退職。
3ヶ月後、自宅近くの3次部品メーカーに正社員としてスピード転職。
このとき30を過ぎていたのでとてもラッキーだったと思います。
転職活動では正社員での就職は厳しいかなという言う手ごたえでしたので・・・・
下請けの下請け=パワハラが横行
3次部品メーカーということもあり、2次メーカーの「パワハラ」らしき言動もちょっぴり横行していました。
※とはいえ2次メーカーですよ!?取引している1次メーカーがほぼ1社だけだったので、とことん強気w
上司が食い止めてはくれましたが、「すぐ来い!」とか上司が言われていていろんな意味ですごいなあと圧倒されたこともありました。
仕事が激減→事業縮小→退職者続出→夫が鬱→退職
その後、1次メーカー(日産)の不調もあり、取引先の不祥事も。
仕事の絶対量が減→事業縮小→やむなく退職する人も続出。
やはり立場が弱い3次メーカーは、2次メーカーがこけるとすぐ影響が出てしまいますね。
その後、社長が自動車部品以外の事業を立ち上げて営業に行くも、あまり効果はなく会社は半分の規模に。
人も半分いなくなりました。
私の上司も転職してしまう始末。
なんだか最後は寂しい感じになってしまっていました。
3社経験したことでいろんなタイプのメーカーを見させていただきました。
そのせいか、(自動車)メーカーを見る目は肥えたんじゃないか?と自負はしています。

その後、夫が仕事で鬱になってしまい、高知移住に踏み切ります。
そして第二の人生を高知で過ごすことに。
そして今。
まったく違う人生を歩もうとしています。
1年間高知県に住んでみて、昔のことを思い出し、比べてみると人生の折り返し40歳を目の前にして、夫も含め理不尽なつまらない仕事はできないしもう東京には戻れないな~と再認識しています。
持続可能な生活を模索しながら奮闘中です。
もちろん夫に頼りっきりもよくないので。
ぼちぼち仕事やブログを書きつつやりたいことも見つかりました。
ここ、高知で踏ん張ってみよう、決意したしだいです。

以上、「15年間のOL時代を振り返る」の記事をお送りしました。